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▲1977年留学日記にもどる
1977年9月
9/2/77 FRI

きのうまた、日本人クラブをして、みんなでうちで食事して、わたしの帰国時期なんかも話し合った。12月22日ごろがどうかと思う。本来ならここでクリスマスをして、12月27、8日ごろ日本に帰るのが理想的なのだが、飛行機の便の都合で、チャーター機がそのころにはないのだ。大学の準備をすべて終わらせれば、あとは日本で働いて待つのもいいと言われた。実際に入学が認められるのが来年の九月だから、それまでここにいても仕方がないのである。


9/3/77 SAT

人を送るのは悲しいものだ。きょう、先生のアランとリチャードをまじえて、ハビエ夫妻、みきおさん、まさるさん、弟、それにわたしの九人で日本食を食べに行った。みんな思いのほか興奮していて、特に外人をまじえたグループなので、メニューのことで騒いだり、箸を振り回したりと賑やかだった。アランたら、日本人はcannibal(人喰い人種)なのかと聞くので、どうしてかとたずねると、メニューをさしてmen(麺)とここに書いてあると真面目に聞くのですよ。アランもリチャード二人してスペインにいってしまうんですって。以前にマイクがやめるときも、£5 のお礼を貰っただけだ。あんなに週末を使って、学校の旅行を計画して、みんなのために心を砕いて来たのにと、アランが教えてくれた。トニ−が去ってしまい、マイクとキャロラインと良い先生が次々と辞めて、こんどはアランとリチャードが行ってしまう。わたしの仲良しだった先生方にも別れがつきまとうのだ。同じ学校に半年もいると内情にもかなり詳しくなり、あらも見えて来て昔、魅了されていたこともあせてしまう。やはり12月がやめどきでしょうか。こんな宴は初めてだったけれど、冗談もわかるし、英語の上級クラスの仲間たちなので、ほんとうにたのしかった。イギリス人もつきあうと楽しい人が多い。


9/4/77 SUN

物を書く楽しさ。ある世界を自分が自由に操り、つくり出していく。それは新しい世界、そしてその面白さに心を奪われてしまって、自分がどこにいるのかすら忘れてしまう。悲しみも喜びもすべて自分のうちにあって、いわばそれに光をあてる仕事が物書きだ。わたしの物語の主人公はいつどこで笑うのか。あるいは悲しむのか。それによって二重の人生を送っているような気がする。調子さえ掴めれば怖いことはない。職人の手仕事と同じだ。その方法を習得さえすれば、たとえどこにいても、同じ生活ができる。わたしの夢は大きなベッドとペンとインクがあれば十分だ。


9/5/77 MON

アランのクラス、9名中5人のイタリア人は、多すぎる。ウンベルトのような美しい人はいません。みんなミラノ出身というのも不思議。十二月に一度帰って、またここにくるのだれど、また一年でロンドンはdirtyになるのでしょうか。沈む国Englandって気がしますね。とにかく一生ロンドンで暮らそうって気にはなれない。六か月暮らしてみて、もう十分よくわかっていますから。といって、日本にもどって昔の生活に戻れないこともわかっている。


9/7/77 WED

六か月いてようやくAdvanced Courseになれた。毎日勉強することしかないので、朝は七時前に目がさめる。不思議なやすらぎに包まれていて、怖いことなんかないです。わたしの外側には別の生活が広がっているにせよ、調和している。朝7.00からBBC放送を聞き、The Guardian (50P)を隣のニューススタンドで買い求め、それを見ながらゆったりと朝食を取る。学校に行く前にも予習ができるなんて、こんな環境がほかにあるだろうか。日本に帰っても、Japan Timesとか取って英語の勉強を欠かさずやっていこう。英語が使えるところで働けばいいのだ。働くのは自分が納得すれば嫌じゃないです。


9/8/77 THU

とうとう弟が帰ってしまった。六週間近くいつもいっしょだったのだから、消えてしまうと寂しい。空港まで送っていく元気がなかったから、Taxiを拾うと、一人乗り込んで帰っていきました。学校が終わって、すぐ家に帰る気になれなかったわたしは、King's Roadに行くことに決めた。49番のバスに乗りながら、Holland Park Rd. - King's Road。 そこで12番のバスに乗り換えて、Piccadilly - Oxford street。こんどは73番のバスでHammersmith, 27番でNotting Hill そして Holland Park Aveまで戻って来ました。帰ってきて汚れた食器を片付けて、バスタブに熱い湯をいっぱいにして、パインツリーのオイルもたらして、ゆっくりと浸かります。あの子の飛行機は7:00pmだった。あの子が出発するまで家で待っていたくなかったのです。


9/10/77 SAT

文子さんから電話をもらい、すき焼きパーティに行って来ました。なじみの顔が揃っていて、ひととおり話をする。弟がいたからこんなお誘いも全部断わっていたのだ。姉弟で夜外出することはなかったと思う。だって家族はいつも家でいっしょにいるものだもの。


9/13/77 TUE

イーディスに誘われてプロムにいく。ビクトリア&アルバート・ホールで開かれているプロムナードコンサートのことである。なかなかよかった。なぜ弟をさそっていかなかったのかしら。コンサートに来てみるとまわりは純粋のイギリス人ばかりで嬉しくなる。日頃町ではお目にかかれないような上品で雰囲気のある人たち。ロンドンはしばらく滞在して、遊んだり買い物したりするところみたい。とても生活する場ではない。それは東京についてもいえるけれど、日本はまだ日本人だけでなんとか過ごしているでしょう。ここは人種のるつぼ。


9/13/77 TUE

まさか手持ちのお金が£9.96しかないとは思わなかった。£60おろしてくださいと頼んだ銀行で£9.96しか残高がないといわれたときの驚き。そういえば、弟がいたとき、£420、£520、£220とおろしているのだから、残っているはずないのだ。途端に日本に帰りたくなってしまった。


9/15/77 WED

家族と国際電話でやりとりして、父と弟がもう少し頑張れと励ましてくれます。とにかく、経費がかかりすぎるから、この家もたたんでもっと安いところに引っ越すことにします。学校でクラスの人と話していたら、ドルで1000ドルのトラベルチェック持っていたことを思い出した。いざというとき、これで日本に帰ることになっていたのだ。日本人の友だちにも相談したが、みんなここにもう少し残って勉強した方がいいと励ましてくれた。イタリアの友だちは涙がでるほど親切で、芝居やコンサートに招待してくれた。きのうロイヤル・フェスティバル・ホールで行われたバレー"ジゼル"は素晴らしかった。お金は日本から送金があれば返してというのだ。


9/16/77 FRI

きのうも学校の帰りにイタリアの友だちとコンサートに出かける。べート−べェンのsymphony NO.9合唱付である。ほんとうに彼らといるとほっとする。おおきなファミリのようだ。コンサートの座席一列全部買い占めて、友だち親類で固めているのだ。なんでもロンドンはこのようなコンサートが信じられないくらい安くて、いつでもやっているから、みんな夢中になって通っているという。わたしもいちおうクラシックで育ったけれど、いままで一人でコンサートに行くことができなかった。ロック・コンサートなら数えきれないほど通いましたが。 きょうは、午前中、学校に休んで、以前住んでいたKing's Roadのホステルに行って来た。Addison Avenueは、環境はいいが贅沢すぎて、あと三か月いるのはもったいない。そこで事務長に事情を話したら、同情してとりあえず空いている部屋があるから、引越して来なさいと言われた。ほんとうによかった。


9/19/77 MON

きょう学校に行ったら、嬉しいことに日本人が三人も入って来た。ひとりはエイスケで同じクラスである。まさかずさんがセーターを買いに行くのに付き合わされる。この方は、四国の方で大学の先生をしていてロンドンに派遣されてきたのだが、みんなから、略して"まさ"とよばれ、これではヤクザと同じだと嘆いている。わたしのこと元気になってよかったと何度もいう。昔から立ち直りがはやいので有名なのだ。


9/20/77 TUE

きょうKing's Roadに行ったら、今週の土曜日から受け入れてもらえることになった。そして家の片づけをはじめたところ、日本人の女の子から電話があって、来るとのこと。彼女も一人暮らしはじめたところで、ここにある細々したものを全部欲しいといってきた。わたしも捨てるのは惜しいと思っていたからちょうどよかった。家族や友だちから手紙が五通も届く。とりあえず二通だけ返事を書いた。あまり幸せすぎて信じられない。


9/21/77 WED

引越しのために荷物作ったら、文子さんのところにあれだけ本を預けているのに、八つか、九つになるのです。おそろしい。夏物は日本に送り返して、身軽になりたい。それにしても日本から驚くべき量を送ってもらっているのですね。自分でも呆れている感じ。King's RoadのPost Officeがいちばん親切で感じがいいので、そこから荷物を出すことにします。電話代のことでPost Officeまで出かけたら、応対してくれたのが気の利く有能な女性で、とにかく£31払って、あとは収支決算して通知をだしてくれることになった。それだととんとんくらいから。BLACK LISTに載るよりはましでしょう。よくあるのです。日本に帰ることが決まって、あちこちに国際電話しまくって、そのまま姿を消してしまう。でも電話を申し込んだときに書類はきちんと残っているから、今度また電話を申し込もうとするとできないしくみになっています。二度とロンドンに帰ってこないならともかく、身辺をきれいにして引越しするのが常識ってものですよ。電話は一月、維持費だけで£3も掛かっていたのですって、知らなかったとはいえ驚き。


9/23/77 FRI

心配だったので学校の帰り、やはりKing's Roadに行って来た。前いた部屋より場所は悪いが、安全性を考えればよい。部屋は暖かくて、明るくて、居心地よく片付いていた。そこで昔からいる懐かしいアジアン・ガールたちと会って、ひとりでつっぱっていることもないと気付いた。荷物を少し置いて来たのにまだ、信じられないくらいの量がある。明日からは取りあえず引っ越して、荷物を減らすこと考えなくては。わたしは人間関係をじょうずに結べなくて、ときどき逃げ出したくなることがある。あそこにいるときは、ひとりじゃなくて、結構しあわせだったと思う。キングクリムゾンの宮殿を聞きながら、わたしはこれからどうなるのだろうかと考える。三月までいるべきなのか、などと思い悩むのです。


9/24/77 SAT

きょうは引越し。まさかずさんが9.30にここに来てくれることになっていますが、あまりの荷物の多さにげんなりしている。本当にTaxi一台で引越しできるのだろうか。


9/25/77 SUN

King's Roadに帰って来たら、安心してよく眠れた。朝七時前に目がさめる。ここはペンショナ−もいるせいか、建物全体にもう暖房が入っていて、夏用のシャツを出して着ている。社交生活することもないから、洋服は全部送ってしまおう。半年間のあいだにひとつの物語ができあがっていた。あとは全体の調子を合わせればいいだけ。好きなだけグレック・レイクのボーカルに聞き惚れています。Addison Avenueでは、電気はいちいちコインをいれなければ使えなかった。夏だったから、電灯もそんなに必要無かったけれど、これからはきっと寒すぎると思う。


9/26/77 MON

学校に行くと、懐かしい人たちが戻って来ていた。まさるさんとパプでかなり込み入った話をする。この方は銀行からの研修で、勤めていたところがお互い近いせいか、銀座や日比谷、大手町界隈の話をよくする。旅行でいないあいだに引越しをしたことなど話して、デポジットの件、大家さんと掛け合ってもらうことになった。こういうとき、有効なのがCousin(従兄)という言葉。恋人でもない男の人が出て来るときは、Cousinに決まっている。金曜日にはまなぶさんと"浜"で食事をごちそうしてもらった。あのあげ豆腐は本当においしかった。この方はまるで英語ができなくて、学校の受付で立ち往生しているところをいろいろと親切にしてあげたのだ。しかし男友だちが切れ目なくいるのは、幸せなのか、煩わしいのかよくわからない。明日はイタリアの友だちとミュージカルを見ていくことになっている。名前も聞いていないのに、出かけるのだから暢気なものだ。弟が帰ったとたん、こうしてあちこちから誘いがあるのです。


9/27/77 TUE

ミュージカルを見た帰り、11番のバスがすぐ来て劇場から25分で帰って来ました。澁谷からバスで25分というのは、どのあたりでしょうか。きょうのミュージカルはすごくよかった。オーディションの物語でコーラスラインといいます。スターを夢見る卵たちが自分たちのことを語るんですが、アメリカなまりも完璧に再現して、分かりやすい。最後がいちばんよかった。オーディションに受かったものが次々と名前をよばれ、残された人たちが帰ろうとすると、いま呼んだものは帰っていいといい、結局舞台に残ったものが、栄光を勝ち取るのです。いっしょにいたイタリア人たちも泣いていた。


9/28/77 WED

まさるさんにNegotiationをお願いしたおかげで、デポジットのうち£19.52戻って来ました。久しぶりに美味しいものを食べようということになって、マ−キーの近くのイタリアン・レストランに行って来ました。10.50pm、部屋に戻って来ましたが、少し疲れた。毎日遊びに行っているのだから、当然といえば当然。



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