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▲1977年留学日記にもどる
1977年7月
7/2/77 TUE

結局8.00から起きている。よく体がもつなあと思う。もっとロンドンにいたいと思う。欲がでたのだ。Addison Avenueのうちに住んで、15週£350 の私立学校に通って、よい先生に囲まれて、それで不足を言ったら罰が当たる。大学に入れば母も納得してくれるだろう。しかし家から独立することは大切だ。こうやってきちんと一人暮らしができるのに、何故怖がったりしたのだろうか。あと£1000、いや、航空券がないから、£400あればいい。大学が決まったら、いちど日本に戻り、10月まで働こうか。お風呂に入って、髪を洗って、お洗濯して、Blunchをとって、本当に空は雲ひとつない上天気だ。こんなとき、一人でいる幸福を感じる。辻邦生のいうサンサシオンだ。


7/3/77 SUN

7.45pmごろJimmy'sに行くともうみんな集まっていた。みんなクラスの知り合いだが、なぜかほっとする。9.30頃、マイクがイタリアン・ボーイをつれてやってきた。みんなで10.30までそこで粘って、Oxfordにあるスイスディスコに行こうという話になった。わたしはディスコは好きじゃないけれど日本人はほかにいないし、しぶしぶ付いていった。こんな夜の過ごし方もあったのですね。そこで12.30まで踊って、マイクに家まで送ってもらいました。みんなスイス人なんでけれで、ジャーマン・パート、フレンチ・パートって言葉がちがう。


7/4/77 MON

二週間くらい前から仲良くしているイタリア人がいる。Anna という。授業でHave you ever...という構文を使ってなにか文章をつくることがあった。そのとき、Annaはわたしにむかって次のように尋ねた。"Have you ever read the tale of GENJI" (源氏物語をお読みになったことがありますか)そのとき、わたしは tale of GENJI という言葉の意味を取りかねて困惑した。まさかこんなところで外国人から源氏物語についての質問を受けようとは予想もしていなかった。聞けばAnnaはミラノに住んでいて、母親は日本語を七年間も学んでいると言う。そのボーイフレンドのウンベルトは別のクラスにいて、わたしの森英恵のスカートを見て、KORIN or KANO school (光琳か狩野派か)と尋ねる始末である。日本史は嫌いじゃないけれど、何を聞かれても答えられるわけじゃないから、どきどきしてしまう。こういうとき、教養が身に付いていないことを恥じる。ふたりは近くのフラットに住んでいるのでときどき出かけていっては、源氏物語の講義をしてあげることにした。


7/9/77 SAT

Annaから連絡があって、1.00にアナのところに行くことになった。この美しいカップルといられることは、最高の栄誉。友だちさえいれば、ロンドンは間違いなく最高のところだ。やはり、King's Road が好き。週£15で借りられるところがあるなら、嬉しい。そこでこれからの生活費を計算してみる。結局、たかだか£35-40、日本円にしたら二万くらいのことで生活の快適さを保てるか、否かってことになる。Highgateに行く話はどうも苦手だ。サンローランの服が買えるようになっても、田舎に住んでいるのは退屈。そんなにまでして不便を我慢することはないと思う。


7/14/77 THU

また冬のセーターを出して着込んでいる。4.30から勉強はじめて、疲れたから小休止していると家からの小包が届いた。本だ。お料理の本や、三四郎、我輩は猫であるなどなど。暗くなったら、音楽もラジオもTVもいらない。自分の瞑想にふけるだけだ。悲しいとき、心が干涸びてしまいそうになるとき、あの小説たちを読むのだ。それにしてもなぜロンドンはこんなに寒いのだろうと、考えてしまう。16℃です。日本の夏なんて狂気ですね。だから、ここでは夏も背広を着ていられるのです。


7/17/77 SUN

宿題をしていたら、恵美子さんから電話があって、King's Roadまで出かけた。明日日本に帰るのでさよならパーティをするという。この方とは、はじめてロンドンについて以来、打ち明け話もしたし、なにかとお世話になった、わたしより三つ年上である。おなじホステルにいるアジアン・ガールたちが総出でごちそうを作っていて、わたしも思いがけず歓待される。学校には日本人以外のアジア人はいないから、ひさしぶりに居心地が好かった。7/26にはいよいよ弟が来る。住まいは先日みてきた。少し郊外だがなかなかよい部屋。ふと、こんな夜はseriousにわたしの人生はどうなるのだろうかと考えてしまう。最近はNewsやNewspaper、それに勉強ばかりで、学問的に生きていたから、人間的感情を表現することがなかった。それだけにこんなかたちで空白なときを迎えて戸惑ってしまう。人生の愉しみは、一人で閉じこもっていることでもなく、仲間とわいわいやっているということでもなく、そこの調和だと思う。あした学校でアナとあえるかしら。この一週間寂しかった。話のできる人がいないんですもの。


7/18/77 MON

学校に行ったら、Annaたちが帰ってきて、悲しいことなんか一遍に飛ばされてしまった。まずはHolland Parkでいっしょにランチ。そして放課後はAnnaたちのフラットに行って、しゃべりまくる。二人はパーティに呼ばれているんですって。ウンベルトはしきりに服装のことを気にする。Annaはすばらしい感覚をもっています。そして二人の友だちが来た。イタリアンガールとイギリス人のギタリスト。彼女は映画にてでくる典型的なイタリア女。あとでAnnaがこっそり教えてくれたけれど、スノッブなイタリア人は、特に北イタリアのひとは、アクセントも控えめにフランス語のように発音するのですつて。そう言われてみればなんとなく違いが分かるような気がする。みんなでSOHOにあるmember onlyのクラブで一晩中踊り明かすのだという。わたしは怖くなって10.30 に帰ってきました。なんとなく危険な匂いがする。いままでにもそう感じたところは避けてきた。これは外国生活の鉄則です。


7/19/77 TUE

ウンベルトのお父様がロンドンに突然来られることになって、私たちの楽しい夕食会は中止になった。おかげで助かった。きのう六時間も彼らとつきあって、多少うんざりしていたから、それに勉強したといと思った。勉強していると、一人なのも、寂しいのも、ロンドンにいることすら忘れてしまう。タイプライターが必要だから買いにいかなくちゃ。


7/26/77 TUE

弟が着いた。二人で話をしていたら、ロンドンにいる気がしない。いま、下宿まで案内してきたところ。恋をしているわけでもないのに、弟と話ただけで不思議なやすらぎがある。わたしのこころはたとえるならパレット。どんな色でも作り出せるけれど、考え過ぎるとブラックになってしまう。それを涙で洗い流すとまた、まっさらなパレットが生まれます。わずか五か月だけれど、ヨーロッパの社会にいて、親と子、男と女がおたがいにはっきりと個人を守っているのをみても、日本の文化は村社会の農耕民族だと思います。


7/27/77 WED

きょうKing's Roadの例のクレープ屋さんにいったら、日本人のお兄さんがいて、下宿が見つかったのにといいます。それもわたしがごたごたして、ろくに連絡していなかったから、もう別の人にきまったとか。彼はわざわざ一週間もKeepしていてくれたのに、残念だってといいます。


7/27/77 THU

弟がきて、わずか三日目なのにもうけんかしてしまった。買い物をして途中まではよかったのだ。何しろ初めての外国で、買い物の仕方もわからなくて、バリ−ですてきな皮のジャケット£35、それからなにしろ寒いのでセーターを買って、Jimmy'sに行ったの。すると注文の仕方も、ウエイトレスの英語もさっぱり分からなくて、こんなところに無理矢理連れてこられて迷惑みたいなことを言った。あんなに英語がはなせないとは思わなかった。受験英語ばかりやらされていたから、文法が完璧でないとちゃらちゃらしゃべれないというから、ひとりで帰りなさいと言ってやった。いままで、何不自由なく過保護にそだっているから、とてもひとりで外国では生きて行けませんよ。


7/31/77 SUN

わたしは時間を待つのが下手だから、他人とは暮らせない。確実に来ると分かっている人とじやなくちや嫌だ。弟は8.00といえば、必ず来るでしょう。それでも少しでも遅れるとなにかあったのではないかと不安になる。ひとりで生きていれば、そんな気を使うことはない。他人のために自分を空しくするよりは、ひとりで孤独を噛みしめた方が、どんなにいいかしれない。



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