ノートタイプのWindowsNTをちょっと触って、会議のとき議事録を取ってみた。セキュリティさえクリアすればWindows95とほぼ同じだが、Macと較べると使い勝手が違うので、最小限のことだけしかできない。とりあえず慣れるしかないから、しばらくはこちらの面倒もみることにきめた。夜、リゴレットを見に出かける。こちらは小ホールにこじんまりとした舞台と、演奏はピアノだけというシンプルなものだが、歌手は本格的なオペラ歌手なので楽しめた。字幕日本語付きの原語(イタリア語)上演。やはり、オペラは原語でなくちゃいけない。無理矢理日本語にしても間延びして、辛いことがある。この三幕もの、近松や南北が歌舞伎にしたら楽しいだろうと思う。悲劇というものはどこの国でも同質だから、マントヴア公爵を大店(おおだな)の主人にしたり、旗本にしたりして、芝居に構成することは容易い。
研修で横浜ランドマークに出かけた。朝はまだ小雨だったが、大勢ひとの歩いている通路を避けて、わざわざ傘をさして海側を歩く。海に船が泊まっているだけで港町の風情が感じられ、ちょっとした旅行気分だ。週末をインテリアの研究に捧げたので、今日は昼休みも惜しんで、あちこち歩き回る。だんぜんクイーンズスクエアがいい。店を見つけてふらりと入るという、旅心を刺激する。吹き抜けで太陽の明るさを十分にとった設計が、安心感と自然との調和を生み出している。ここに来ると、レストランも各種あって、どこで食事しようかといつも迷ってしまう。今日はディズニーストアで立ち止まってしまった。アメリカのように限定品種だが、SALEがあって、30-50%OFFなんてプライスが付いている。Tシャツとかマグカップとか、ミッキーは可愛い。おかげで研修中は楽しく過ごし、帰りの電車ではすっかり寝入ってしまった。
昨日から、理想のインテリアについて考えている。物が多すぎるのだ。シンプルな生活を望んでも、本や洋服や雑誌や電機機器に囲まれて生活しているから、シンプルをきわめようとすると、部屋にあるものはほとんど棄てなければならない。森茉莉の贅沢貧乏のような暮らしをしたいと思い、自分の感性に合うものだけを選んで来たばすなのに、気がつくと身のわりに物が溢れている。意識の上ではいつもインテリアのことを考えて来たのに、ちょっと油断すると収拾がつかないくらいに物が散らかってしまう。おもいきって、不必要なものを棄てるしかないみたい。快適な住まいはひとの心を落ち着かせ、新しい創造性をあたえてくれるはずだ。でも、散らかった部屋にいて、馴染んでしまうのはもっと怖い。季節の衣替えというのも、ひとつの知恵かもしれないと、ようやく片付いた部屋を見渡して思う。
暑い一日だった。西側の窓から入って来る海風が心地よい。ELPのLadies & Gentlemen を聴きながら部屋の模様替えを始めたところ。フランスの雑誌などを見ると、しゃれたインテリアに当たり前のように住んでいる人がいるが、あれは湿気の少ない夏だからできることだ。稲の生育に適した熱帯モンスーンがある日本では、閉ざされたインテリアは向かない。自然とつねに交流しているような、夏は涼しい風を求め、冬は暖かな日溜まりを楽しめるような住まいが必要だ。家だけでなく、洋服も小物もすべて季節に合せて換えていかなればならず、それを楽しみと思うか、うんざりするかは、その人の姿勢による。わたしは細々とした物の整理が苦手、買い物は大好きときている。それでも家のまわりが破たんしないように、季節の変わり目は真剣に模様替えをするのだ。これがないと生活に困るので、仕方なく土曜日の夜を費やして行なう。まあ、唯一の救いは天下ご免で好きなアーティストのCDが掛けられることかしら。
金曜の夜はなんといっても、ジャマイカ戦だ。今世紀にもうW杯はないのだから、真剣に見なければと思うが、日本が得点に結びつかないうちに、ジャマイカに2点も入れられてしまった。後半が苦しいところだ。日本は本当に平和なのだとしみじみ思うが、全般的に緊張が足りないのではないか。いま、ようやく1点を返したが、その大げさなアナウンサーの解説にややうんざりする。
渋谷の東急東横店に用事があって、会社をおえて出かける。給料日と重なって、澁谷はひどい混雑だ。車は少しも進まないし、横断歩道から人があふれている。こういう盛り場にはなるべく近寄らないことにしているのだが、ここで待ち合わせをしているカップルは、巡り合えるのだろうかなんて、本気で心配してしまう。昔、わたしが学生だった頃、澁谷は銀座の次にお気に入りだった。お茶の水から渋谷まで、都バスにのっておしゃれな町並みを楽しんだりした。だから、いまもなんとなく足が向いてしまう。でも、休日にわざわざ出掛けて行く根性はない。松涛にある能楽堂や、Binkamuraの催しにはときどき行くが平日に限らせてもらっている。
突然パリ左岸の景色が浮かんできた。95番のバスにのって、セーヌ川を渡りルーブルにいく風景。昨日フランスの歴史について学んだし、W杯でフランス各地の中継を見たせいかもしれない。パリではいつもサンジェルマン・デ・プレの三ツ星に泊まる。華麗ではないが、こじんまりとして中庭で朝食がとれたりと風情がある。そうやって庶民の生活を楽しみ、町に繰り出すと、行き交う人がなつかしい気がしてくるから不思議。パリの町は夜もまだまだ続く。特に土曜日の夜ともなれば車、オードバイとそれは騒がしい。このあたりのカフェは夜二時ごろまで営業しているから、その賑わいといったら、熱気が溢れている。パントマイムや、大道芸人が街角にたち、道行く人たちは、気に入るとお金を投げ込んで行く。メトロの構内ではバイオリン弾きがたっていたりする。サッカーのサポーターたちの熱気をみると分かると思うが、くよくよせずに生活を楽しんでいるのだ。
締切りのある仕事がひとつ終わった。時間との闘いの中で、どこまで仕上げるのかといつも悩むところだが、天命を待つという言葉の通り、そのときの最善をつくしてよしとしている。結果がどうでるのか、またそのとき考えればいいのだ。緊張と中休みのバランスがとれていればいいのだが、昔はそれができずに苦しんだ。今は、ひとに優しい分だけ、自分にもいい加減に暮らしているので、努めて気分転換するようにしている。雨降りの夜は読書に限る。《ラ・ロシュフーコー公爵傅説・堀田善衛》は、これまで謎だったフランスの歴史のおさらいだ。昔習った虫食いの知識を補完し、ルイ13世や14世のフランス王室の存在意味が初めて理解できた。しかし宮廷というところはどこも血なまぐさい匂いがする。
昨日は祖父の命日だった。81年だから17年前のことになる。ちょうどこんな寒い雨の夜だった。一年前に妻(祖母)を亡くして、ぼんやりとしていることが多かったが、ぽつりと寒いなと言った。そして、晩酌の日本酒を飲みおえる前にグラスを落とし、そのまま意識を失って、子供たちが全員駆け付けるのを待って亡くなった。おだやかな死だった。日頃から真面目を絵に書いたような人で、テレビはNHKしか見なかったし、国会中継や政治討論会が大好きだった。だが、ひとつだけ、最後にお茶目なプレゼントを残してくれた。それは、なにかの話題で、死後の世界の話になって、ほんとうにあの世ってあるのかしら、おじいちゃんがいちばん近い人なのだから、もし、死んであの世があったら、その証拠に電気を消してみてと頼んだことがある。その通夜の席で、みんなで集まっていると、いきなり電気が消えた。あらっと思うと、また、付いて、そして、もう一度消えた。祖父が、あの世があることをみんなに知らせているのだと、おかしかった。本当の話である。プールに行っていた従弟のところには、祖父が迎えに来たそうだ。泳いでいたら、ガラスの向こうに祖父が立っているので、なんだろうと出てみると誰もいなかった。時刻がちょうど祖父の意識不明になったのと重なる。この従弟とわたしは溺愛されて育ったので、知らせがあったのだ。
再来週、オペラを見にいくことになっているので、《リゴレット》の予習をする。これは、1832年11月22日に、パリのフランス座で上演されたヴィクトル・ユゴーの《逸楽の王》にもとづくオペラである。ユゴーの劇はその内容があまりに政治的に不穏であると言う理由でただちに上演禁止となり、次に上演が許されたのは50年後であった。作曲家ジュゼッペ・ヴェルディは舞台をパリから、マントヴァに移すことで完全なユゴーの世界を再現し、1851年3月11日にベニスのフェニーチェ座で初演する。この北イタリアのマントヴァは、12世紀当時フランス領だった。物語は、マントヴァ公爵という若くて凛々しい領主が、美しい女とみれは、声をかけて自分のものにし、騒ぎをまきおこす。やがて公爵は自分の宮廷の道化師、リゴレットの清純な娘ジルダも、まんまと手に入れ、その後で、別の女を口説く始末だ。リゴレットは掌中の珠である娘を汚され、復讐のため刺客をやとうが、なんと身替わりになった娘が公爵のかわりに死んで行く。父性愛と宿命が闘い、父はすべてを失う。哀しいがそれゆえに、きわだった美しさで娘ジルダの無垢な愛が浮かび上がってくる。
晴れた空を眺めながら、人間は天候に左右されていきているのだろうかと、ふと考える。晴れて風が通る部屋にいて本を片手に寝転んでいるとき、幸せだとぼんやり感じる。でも、雨の日に、窓越しに外の風景を見つめ、昔の人を思い出すのも趣があっていい。要はどんなときでも、そのなかに何かを見つけることができれば、幸せなのだ。感動というにはおおげさすぎる心の動きとでもいおうか。怖いのは何も感じなくなること、現状に満足して、それに固執して他人を排除すること、結構まともだと思う人にこんな傾向を見つけて、はっとさせられる。
あっという間に週末が来た。いまやっと宿題を終えたところ。マイクロソフトの話になると一言ある。Excelとか、Wordとか、PowerPoint のごてごてしたレイアウトや、ワンポイント・レッスンが毎回でてくるのにはうんざり。いまは、仕事でもほとんど使わずにすましているので快適だ。ExcelのかわりはFilemakerがあるし、WordよりもJeditの方が軽くて、使いやすい。電子メイルを活用するようになって、テキストのフォントに凝る必要がなくなった。早く正確な内容が伝わればいいのだから、文字飾りに時間をかけても仕方がない。
会社はふしぎなところだ。昨日、三段キャビネットの一段目が鍵がかからないのに気付いて、修理を頼んだ。すると、朝いちばんに来てくれた係りの人がキャビネットをみて、ひとこと。これ、引き出しが違っていますよ、という。よく分からないので聞き直すと、キャビネットの一段目だけが、別の種類のもので、したがって鍵の掛かる位置もちがうのだそうだ。どうも引越しの際に、中身を移動せずに、引き出しだけ動かした人がいて、それがたまたま違う種類だったらしい。そこで思い出したのが、会議室にある廃棄分の二段キャビネット。ここの引き出しを取り出して、入れてみたらなんとぴったり、鍵もちゃんと掛かるではないか。みんな信じられない思いで、鍵の掛かったキャビネットを見つめていた。その廃棄分、今日の午後に引き取りに来て、時間差で間に合った。本当によかった。
暑くなったのと、疲れているのでさっぱりしたものが食べたい。肉料理にサラダだけではさみしいので、梅味風お吸い物を作った。材料は、梅干し(ひとり分 2/3個) とカツオだしがあればあとは適宜。まずお湯を沸かして、その間に、お椀に梅干しをほぐして入れ、ほうれん草、小松菜などの青みの野菜を刻んで入れる。なければレタスをちぎってもおいしい。そこにカツオだしをスプーン一杯いれて、熱湯を注ぐ。香り付けに醤油を一滴たらす。あとはかき混ぜて、熱いうちにふうふういって、飲み干す。梅のすっぱさがほどよく感じるはず。ほかにも、とろろ昆布などで応用できる。仕事の方が一段落したので、きょうは中休み。でも、また明日から隠れ家に籠って、原稿チェックが待っている。仕事がきつくなりそうだと前もって分かるときは、いろいろ準備してでかける。気分転換に飲むコーヒー豆や、紅茶のティーバック、ウ−ロン茶に緑茶セット。ほかにもピーナッツとか、プルーンとか、ちょっとつまめるものを用意して、楽しみながら仕事をしています。
今週から会議室が少し狭くなって、レイアウトが変更されたので、すかさず会議テーブルを外に移動して、場所を確保する。奥まったところにあるので、ここに書類を並べれば作業台になるし、うちうちのミーティングにも使える。会議室が使用中のことが多いので、こういう場所は貴重だ。午後、原稿を広げて内容の確認をする。静かなのでゆっくりと考えながらチェックしていたら、七時すぎてしまった。気持ちよく仕事ができるので、もう少し居たいような気がする。明日もここを確保して仕事の続きをしよう。
昨夜はまだ、雨の音が聞こえていたのに、今朝は青空が広がっていた。慌ててシーツを洗濯することにする。海の近くの家は、風の力で本当に洗濯ものがよく乾く。昨日食べたイカの一夜干しがおいしかったので、パンプキンシード(かぼちゃの種)をネットに入れて、外に吊るした。そういえば、今朝食べたコーンフレークにも、これが入っていた。かぼちゃの種といえば、昔、中国を旅行したとき、孔子が住んでいたという曲阜で物売りから買ったことがある。塩気が少しきつかったが、すこぶる美味だった。日頃、コンピュータ相手の仕事が多いので、休日は自然を感じながら過ごすのがいちばん。それにしてもよく眠った。食事の合間にアガサ・クリスティを読みながら、疲れると少し眠って、その繰り返しで一日過ごす。
朝小雨だったので、近くの恩師宅を久しぶりに訪問する。先日の分科会の話をして昔話に花を咲かせ、庭で取れたきゅうり、もぎたての茄子、じゃが芋などたくさんいただく。野菜の買い出しに出かけ、かぼちゃ、インゲン、トマト、たまねぎなどを求める。材料が揃ったところで、夕方からたくさん料理して、早いご飯を食べて眠る。後で地震があったことを聞くが、家族のだれも知らなかった。それにしても外がまだ明るいうちから、お風呂に入るのは気持ちがいい。持って来た本をようやく読み終わる。
家族がみな出掛けて留守なのを幸い、ZEPPELINの II & III を大音響で聞いている。自分の家なのに、こんな音で昼間から聴けるのはめったにないこと。雨なんかどんどん降れと思う。最近、足りないものだらけだとぼんやり考える。眠りが足りない。時間が足りない。感動がたりない。会話がたりない。世の中には物があふれているというのに、この物足りなさはどこから来ているのだろうか。核となる人生の中心のようなものを失って長い時間がすぎていった。その間、年だけ重ねて、本質はぜんぜん成長していない。雨の日に、窓越しに外の風景を眺め、人生を考えるというのは、世界共通の現象だろうか。巷に雨の降るごとく われの心に涙ふる と詠ったフランスの詩人がいた。
週末は三連休。六月十五日は千葉県民の日で公立学校はお休み。TDLも割引き県民の日チケットを販売する。他にもいろいろな施設が無料開放されて、ちょっと嬉しい庶民の楽しみを味わうことができる。
物事は自分から始めなければ、なにも始まらない。卵を割らなければオムレツは作れない(西洋のことわざ)というたとえのように、じっと待っていても何も変わらないのだ。ほとんど、毎週のように新しい友だちとの会合があって、充実した時間を過ごす。学生時代とはまた違った人間関係が築けるのが嬉しい。来年の自分がどんなことを考えているのか、予想もつかないが、苦しいとき励ましてくれる友だちがいることは確実だと思う。そういう意味でWeb友だちはほんとうに貴重な存在だ。一通の手紙で、こんなにしあわせなれるのかと不思議に思うことがある。
朝から雨が降って肌寒い。今日みたら、アメショの方がMac のモニターの上に寝ている。きっと暖かいのだろう。冬がおわって、暖房器具は片付けてしまったから、猫にとってコンピュータの発熱は価値があるらしい。ときどき、勝手に電源が入っていたりすることがあるが、こういうからくりだったのだ。猫がメイルを送るようになったら、便利か、怖いか、この辺で人生の選択があるような気がする。先代のシャム猫はジャズピアノが得意だった。黒鍵をたくみに行き来して、モダンな音をだす。夜中にいきなり応接間のドアが開いて、ピアノの音がする。だれが弾いているかと見ると、蓋があいたままになっているところを、猫が歩いているのだ。でも、ちゃんとメロディになっていたから、音感は正しい猫だった。
高校時代の友だちが集まって、おいしい寿司をたべる会を開催した。幹事は割烹のおかみ。自分の店に仲間を呼んで、ささやかな会が、なんと28名も集まった。二週間前に、メイルを出して、あとは口コミやら、勧誘やらでこれだけ集めたのだ。みんなよっぽど暇なのか、それとも、会いたい年頃なのか。ふだんのクラス会にも来ないような大物も登場して、大騒ぎする。なかには、二十年以上あっていない人もいて、話ができて嬉しかった。
一時中断して、また書き始めた小説がようやく完成した。このところ図書館でたくさん本を借りて読んだので、自分でも書きたくなったのかもしれない。これはいわば編み物みたいなもので、最後になると全体がはじめて見えて来る。ふつうの書き物と違って、Web小説のよいところは、間違えてもすぐ訂正できるところだ。だから、少し冷静になって読み直すと誤字脱字がたくさんある。月曜日だというのに、こんなにおそくまで起きていて、大丈夫かしら。
昨日見ていた、中村吉右衛門のインタービューの中で、芸術家はすべて、すばらしい作品を残すために、命を削るような努力をしていると語っていた。ピカソは長命だったが、ユトリロの若いとき、モーツアルトの晩年などを考えてみると分かるような気がする。自分の好きなことをやって、楽しくて、それが人に認められるなんてことは、まずないといっていいだろう。後は、自分がどこまで意志を貫くかだ。眠る時間を削って、健康を害しながらも、後世に残るような作品を残した偉大な芸術家の歩んで来た道を考えると、自分はまだ甘いなあと素直に思う。努力なんて大嫌いで、辛抱が足りないので、ときには気紛れで頑張るものの、すぐに疲れてしまう。まだまだ道は遠い。
本を片手にベッドに潜り込んでの読書。至福の時である。《UFO事件の半世紀、ロズウェル事件からMIBまで》という本の中に、こう書かれてあった。【医学的な研究によれば、肉体が健康になると、心臓と呼吸器の容量、筋肉の調子、骨と柔軟性と重さ、ホルモンのバランス、皮膚の状態、免疫反応、活力、気力、容貌などにいろいろな良い変化が生じるという。規則的に運動すると人間の体型が変わるという基本的な性質については、ほとんど疑問の余地がない。目ざましい成果をあげているイメージ研究の分野では、多数の臨床的、経験的な研究によって、イメージを利用した治療をすると鬱病、不眠症、肥満、慢性的な痛み、恐怖症、不安神経症、がんなどの病気が回復に向かうことがわかった。】 人間には、わたしたちがその存在を気に掛けていないときは、隠されている潜在的な、特殊な能力が備わっているものらしい。それが訓練や、特殊な活動や状況などで、初めて発揮されるのだ。オリンピックでの超人的な記録や、いわゆる超能力というのも、これに当たるのだろうか。だれでも、勘が当たったという経験はもっていると思う。
週末はこんなサイトで遊んでいる。絵と写真が可愛くてセンスがよい。作っている人も楽しんでいるのが分かる。日本語というのも、嬉しいですね。今年の春にでかけたニューヨ−クは、雪が降ったりして堪能するというところまでいかなかった。ぜひ、また、出掛けてみたい。 ところで、今日撮った人を、遠くにいる人に今日見せることのできるデジタル・カメラは偉大だ。わたしのように、カメラ屋さんに持って行ったり、取りにいくのが面倒なひとには、本当にありがたい。
午後NETWORLD+INTEROP 98に出掛けた。予想を裏切る人出に圧倒される。これからの時代はやっぱりネットワーキングなのだと実感。パソコンは家庭にも、オフィスにあるけれど、それを繋いで何かしようと思ったら、セキュリティや、効率性を考えなければいけない。そのシステムを構築したら、後はメンテナンスと管理という孤独なマラソンが続くのだ。夜はオフ会に参加。こちらは、嬉しい方々と会えて本当によかった。幕張だと帰るのも楽でいい。明日は金曜日なので、ちょっと気を抜いて遊んでいる。
会社のMacが壊れて、OSを入れ替える。別のマシンでメイルだけは読めるが、本当にうんざり。いろいろバックアップをとって、昼過ぎからアプリケーションを入れ直して、全部おわらなかった。こういうときに、なぜかMOは修理中だったりする。メイルとNetscapeしか見られないのに、一日付き合って、のんびりできてよかった、と日記には書いておこう。明日は、幕張メッセのNETWORLD+INTEROP 98に出かける予定。
今日は七時半頃に会社に着いて、原稿の整理を完了させる。締切りのある仕事だと緊張もするが、終わった後の解放感がなんともいえない。とはいうものの、すぐに次の原稿を準備しなければいけなくて、時間はいくらあっても足りない。今週、来週と会合があって、懐かしい人たちと会えるので、頑張っているところがある。小人閑居して不善をなす、のたとえのように、少し忙しすぎる方が合っている。今日も、寝る前にワインをいただく。これが小さな贅沢というのだろうか。猫のようにきまぐれなので、外で飲んでいて楽しいということがあまりない。ぜったい自分の家が落ち着く。帰る時間のことを心配しなくていいし、相手のことを気づかう必要もない。それに好きな音楽が聴けるということも重要な要素だ。
六月になったとたん、晴天だ。五月にたくさん降ったから、六月は晴れの日がつづくのだろうか。月曜日はあんまり頑張らないことにしている。残業なんかもちろんしません。一週間が機嫌よく暮らせるように、力を貯えておくのだ。また、小説を書き始めた。言葉の遊びには訓練がいる。ピアノや車の運転と同じで、大切なのは、毎日の基礎練習だ。練習用に書く小説は習作というらしい。いずれ大作を作るための下地づくりなのだが、こちらもそれなりに楽しい。すばらしい文学論を聞くと、また、すぐにでも書きたくなるのが、ミーハーの習性である。したがって、Webをみる時間はかなり削られそうだ。友よ許せの心境である。