生暖かい風、密林独特の匂い、しなやかな手足を持つ動物の鳴き声、そんなものが入り交じって、鼻孔の奥をくすぐる。ここはほんとうにジャングルなのだろうか。地図もガイドブックも持たず、クレジットカード二枚持っただけで、日本からやってきたなんてやはり常規を逸している。黙って飛び出して来たから、厚志もきっと心配しているだろう。男と同棲していて、それに飽き足らず第三の男まで登場したら、佐知には逃げ出すしか道がない。
面倒臭いことは大嫌い。仕事なんかはじめからしていない。家にいたときもずっと家事手伝いだった。お金さえ積めばなんとかなる私立の短大を出て、20歳からずっと家事手伝いという肩書きに甘んじている。季節ごとに先に開かれる有名ブランドの新作発表会に母親と出かけ、たいていの洋服は親子で兼用ということで購入してもらう。バックや宝石や香水などのさまざまな新作発表会があって、純粋にそのために洋服を新調する人もいるのだ。仕事をしていないとはいえ、車の運転の後、ゴルフスクールに通い、月曜日はフラワーアレンジメント、木曜日は料理教室、金曜日は水泳と忙しい。あとは家族とでかけるマウイの別荘、ロスの買い物ツアー。暇ができるとお友達と会ったり、おいしい店を巡って過ごす。同じくらいの年の店員さんから丁寧な応対を受け、その心の奥に燃える怨みや嫉妬を感じながら、そしらぬ振りをしている。こんな無為の生活を六年も送れば、家を出たいと考えるのもごく自然なことだろう。
だれかに理解されたい。完全に理解して欲しい。だが、真面目に佐知の将来を心配してくれる友だちも親戚もいなかった。残るは男だけだが、何度かした見合いでは、心がときめくような相手に巡り合えなかった。
ひとりベッドに横たわり、枕の位置を替えたり、シーツを引っ張ってみるが、身体にまとわりつくこの熱気はどうにもならない。そとはまだ暗いがいったい朝なのか、夕方なのか時間が分からない。空港からタクシーでこのホテルに入って、そのまま荷物をほどく暇もなく眠ってしまった。こんな殺風景な部屋で何日も暮らすことになるのだろうか。
こどもの頃から、覚えているが欲しいものが何もなかった。欲しいと言う前に親が買ってくれる。勉強だって、家庭教師と何時間も解いた問題をただ答案用紙に写すだけだった。
初めてヨーロッパに出かけたとき、ローマの市内で親たちとはぐれたことがある。あのときの心細さと解放感をいまでもよく思い出す。一人娘だからこそ、こんなに大切にされてきた一方で、不自由な生活を強いられているのだ。厚志と同棲したとき、なぜ迎えに来なかったのだろうか。すぐに厭きて戻ってくるとでも思ったのだろうか。それに反して一年以上も一緒にいた。厚志はいつも貧乏でお金がないといっていたから、シャネルの洋服や、バックやカルチェの時計などを渡して生活費を作って来た。家出するときあんなに持って来た衣装もほとんど売りつくしてしまった。後悔はしていないが、別の生き方をしてもいいと気が付いた。
電話がさっきから鳴っている。でもこの部屋には電話はなかったはずだ。佐知は、起き出して、カーテンを開ける。庭の向こうでなにか黒い影が横切ったような気がするが、あれは豹だろうか。一人娘がジャングルで猛獣に喰われて死んでいるのを発見したら、両親はなんというだろうか。佐知は迷いもなく、バックを取り出すと、サンダルを履いた。このまま窓を開けて外に出れば、森は目の前にある。プライベート・ビーチならぬ、プライベート・ジャングル。よく飼いならされたライオンや豹が口を開けて待っているのだろうか。
そして、数分もしないうちに暗闇にまぎれて、姿が消えてしまった。ジャングルに散歩に出かけて、本当に無事に戻ってこられるのだろうか。でもわたしも後を追ってみたい誘惑に駆られている。