式部卿の姫君で、おんとし十六歳になられる方が一人で暮らしているのを聞いて、六位以上の者で心を動かさないものはいない。この方は、故式部卿が東宮の后にと、心をこめてかしずいていたのだが、急なはやり病にて亡くなり、母君はとうの昔に亡くなっていたから、姫君は孤児になってしまった。御兄弟はいらっしゃるが、ご同腹ではないから、熱心には面倒を見てくれない。母方の残した財産などを頼りにほそぼそと暮らしておいでになる。院も帝も、あまりにもったいないことであると思し召されて、しきりと後宮に上がるようにと仰せがあるが、この姫君は一風変わった方で、そのような申し出も聞かないように暮らしている。とりわけ羞恥心の強い方というわけでもないが、異性に声を聞かせるのを大変苦痛に思っているらしく、宮仕えには向いていないと侍従たちは噂しあっていた。
実はこの姫君には心に決めた方がいらっしゃって、その方のことを考えると宮中からの仰せにも従いたくないのである。聡明な方で、年よりませていて、考えることも大人びていた。その思い人というのは、故院の第三皇子で、今は兵部卿の宮とおっしゃる親王である。父宮の故式部卿とは、従兄弟でいらっしゃる方で、書の腕前では、宮中に並ぶものないという方で、美男であらせられた。年は二十八になる。
この方を東宮にと推す声もあったが、自分は政事や、宮廷は退屈であるとおっしゃって、弟宮に東宮の座をお譲りになった。嵯峨野に離宮を建て、そこに籠って暮らしていらっしゃる。最初の結婚相手である右大臣の姫君とのあいだに、男の子と女の子がひとりつづあったが、奥方が病がちなことをいつも憂えていた。式部卿の姫君はこの方と、父君がまだお元気だった頃、一条の館でお会いになったことがあった。その頃、姫君はまだ幼くて、父君の膝にだかれながら、兵部卿の宮に甘えて、貝合わせなどして遊んでもらった。そのとき、姫君は、初めて父君以外の異性というものを見て、心を動かされた。宮は、品よく痩せて、姿かたちの美しい貴公子だった。
父君は、冗談に、もしあなたが東宮であらせられたら、この姫をさしだすのだがとおっしゃって、ふたりで笑った。
ある晩のことである。それは身にしむような名月の夜であった。兵部卿の宮は、三条にある情人のひとりを訪れようとして、ふと姫君のことを思い出した。七年前にお会いしたときから、お可愛いらしく、美人になるきざしのあった人であるから、今は、どんな佳人になっておられるだろうかと、胸がときめくのを覚えられた。兵部卿の宮は笛の名手でもあらせられた。今宵、供の者もよりすぐって美しい若者たちであった。
一条の館のひとびとは、高貴な方の突然の訪問にみなあわてて、走り回っていた。姫君は何も知らせられぬまま、新しい衣装に着替えさせられ、香を焚かれ、うんざりしていた。妙齢の佳人をもった宮家では、すべてを乳母がとりしきって、勝手に家人が手引きできないように、注意している。乳母から、兵部卿の宮の訪れを聞かされた姫君は、やはり心がときめいた。
中将の君という侍従が用意した席は、几帳ごしであったから、姫君はご自身で受け答えしなければならない。高貴な方に対して、とりつぎは不敬であると乳母がたしなめた。やや大柄な佳人が、身をよじるようにして恥じらう様子も可憐で、兵部卿の宮の心を捕らえるのには十分であった。今宵は挨拶だけと思った宮も、姫君を一目みた瞬間から、はやる心を抑えかね、結局いきつくところまでいってしまった。姫はなにごとかわからず、ただ驚いているだけである。宮は、姫をやさしくなだめながら、昼近くまでいて、ようやく帰っていった。
一条の館のものたちは、思いがけず孤児になってしまった姫君によい配偶者が授かったとばかりに有頂天になっていた。警護も甘くなっていたのかも知れない。その夜、姫君が風のように姿を消した。
姫を大胆にも連れ出したのは、兵部卿の宮の叔父君である院の北面の武士たちであった。姫君は眠っている間にさらわれ、気がつくと院の後宮にいた。
院は兵部卿の宮と大変よく似ていたから、素直な性質の姫君はすぐになじんでしまった。院の後宮は美人ぞろいだったが、みな幾分年を召している。そんななかに輝くような姫君が入って、院もすっかり若返ったようになっていた。兵部卿の宮は、それを聞いて、どんなに嘆かれたことか。身分の上の院にさからうことなどできなかった。しかし、この姫君は数奇な運命をもっていらっしゃった。院の寵姫として、華やかに暮らしていたのが、院の急死で、こんどは帝のご寵愛を受けることになるのである。帝との間には愛がまさっていたのか、御子までもうけた。女皇子、玉のように美しい姫宮である。そして、一条の女御とよばれるようになった。
兵部卿の宮は、女皇子の母となり、尊貴なご身分となったこの方を忘れることができないようである。それは女御の方もおなじだった。御従兄弟である帝のご寵愛を一身に受けながら、初めての相手である兵部卿の宮には、特別の気持ちをもっている。幼少のときからの憧れの相手で、しかも恋のてほどきを教えてくれた方である。
宮廷での歌合わせの夜、二人は初めて、あいまみえることが叶った。何もしらぬまま、体を合わせたのとは違い、いまは愛することを知っている。やがて、女御はご懐妊した。相手はほかならぬ宮である。二人は帝にその秘密を知られぬよう、心を砕き、やがて宮は煩悶ゆえ病に倒れてしまった。帝の寵姫を盗むということは、宮にとっても重すぎた。女御は帝のお心を思うと、すまなくて、出家をきぼうするのだが、許されないことであった。宮の死ですべては闇に葬られてしまった。生まれて来た皇子は、東宮に推される。それほどの御寵愛であった。帝のみまかったあと皇太后となった一条の女御は、二十八歳、花の盛りである。あたらしく、帝になられた三条の宮も、ひそかに思いを寄せて、ときおり歌など送って来る。御関心はあるのだ。
皇太后となったこの方は、ますますおきれいになる。ふたりの皇子様もすくすくとそだっている。もうすぐ十二歳になる姫宮にはそれなりとお相手を探さなれば、いっそ、後宮にいれるのもいいかもしれない。帝がきっとよい後楯になってくれるだろう。
そばに仕える侍従などは、まるで夢の中のような気がしている。これも亡き父宮が長谷の観音様を信仰していた御利益だと信じている。