ひとはなぜ小説を書くのだろうか。ほとばしる才能、自己表現、いや違う。それは単に他人の小説を読んだからだ。自分でもこれくらいなら書けると思い、勇気が生まれる。
夏休みを迎える少し前の昼下がり、島を抱くようにしてたたずんでいる半島のはずれの町で、女はなつかしい人と出会った。 卒業して、おたがいが離れ離れになってから何年か過ぎ、記憶はすでに色あせていた。 男は医学生、女は仕事を持っていた。
ふたりとも人ごみが大嫌いだったから、夏休みが始まる前にその湾を訪れて、思いがけず、巡り会えたのだった。 ほんの少し屈託の混じっている笑顔と、舌の先を丸めるようにして話す様子が、一気に昔の日々を呼び起こす。言葉が形を失ったまま、途方に暮れていた日々。
女が希望して、ふたりは車を借りた。窓を開けたまま、少し遠出して、湾から船に乗る。 だんだん近づいてくる島を眺めながら、言葉は、もどかしく頼りない。初めての接吻、長く熱い抱擁。その一つ一つの行為と過ごした一秒一秒が思い出になるのだと、女は始めから、別れのことばかり考えている。このまま、仕事も家族も棄てて、男と暮らせたらどんなに幸せだろうか。相手は、まだ学校に通う身分である。だから、思っていることの半分も言い出せなかった。
さようならと、一言いっただけで、おたがいの住所も、電話番号も、確かめずに別れてから、一月がたった。女は居ても立ってもいられなくて、その場所をまた訪れる。ここで、紅茶を頼んだ。この場所で急に抱きしめられながら、情熱的な接吻をした。思い出は、かげろうのように揺らいで、その先には未来が見えない。
海岸の大きな岩影には、男がひとり座っていた。最後に別れを言った場所である。女は嬉しさで頬を赤くしながら駆け寄る。男の思いも同じだった。思い出の場所で、過去をもう一度呼び起こそうとしていた。
ふたりはその夜、初めて結ばれた。 別れて暮らしていくことなど、到底できないと思う。その一方で、本当の別れが、そのあと待っていることをふたりとも、よくわかっていた。
女はその後どう暮らしているのか。ふたりはまた、出会うことがあるのか。
物語はこうして始まるのだ。