《きみと会えてよかった》
瀬母亜(せもぁ)は、そう言うと、右手を差し出した。ふっくらとした手のひらは、いつも湿っている。情熱が、ほとばしっているのだ。
葉津(はず)は、うなづいたまま何も言えずにいた。時間が、ここではおそろしい速さで飛んで行く。木々は見る間に色づき、実を付け、そして朽ちて行く。
出会ってから、まだ、何も話らしい話もしないうちに、もう別れのときが来ている。もうふたりは、未来永劫ふたたび会うことは叶わないのだ。葉津はそのことについて、まだ何も知らされていない。
瀬母亜は、ほんの数日、ここで休暇を過ごすつもりだった。自分の生まれ故郷から、できるだけ離れたこの場所を選んだのも、単なる気まぐれに過ぎない。理由も、決意もないかわりに、ドラマがあった。
葉津は、一晩を分け会った相手を黙って見つめているだけだが、どこか、執着をもっているのも、事実だった。初めから、別れるときが来ることをわかっていながら、ふたりが過ごした甘美な時間を、愛と、ここでは呼ぶのだろうか。瀬母亜には、それはスポーツの一種だったかもしれないし、一方、葉津には、特別なひとときだったのかもしれない。
《また、会える?》
葉津がようやく、尋ねた。
《ああ、たぶん、でも約束はできない。》
はじめから、約束など、ここでは存在しないのだ。あらゆる契約は、罪悪だから、人が人を縛ることはできなかった。まして、一方は、馬に乗って、この世の反対側を目指し、残されたもう一方は、自分の住み慣れた家へと戻って行くのだ。
決して、ふたりは別れの言葉を交わしたりはしなかった。おたがいの存在を全身で受け止めたあとは、別の何かが始まるのだと期待している。少なくとも、葉津は、また会えることを信じていた。その体に刻まれた文字は、別の誰かが、いつか解明することになるだろう。
はるか、未来から、過去を遡って行く旅人と、今しか見えない客人が、ここでたがいに引き寄せられるようにして、出会い、ひとときを分けあった。
やがて、おたがいの体内で、あたらしい生命の誕生を予感する。
葉津は、手を振りつづけた。瀬母亜の姿が地平線の向こうまで、隠れるまで。
点よりも小さくなった、その姿を見つめながら、何歳も年を取ったように、惚けたまま立ちつくしている。
昨日出会った真実は、今日はもう幻となり、明日には、なんの跡形もなく消えてしまっているのだ。時間は、なにも定量的に計ることができない。
ふたりが向い合った時間は、不確かなことであり、だれも証明することができない。 葉津は、ひとりになって、何を考えているのだろうか。自分が馬にのって、去って行く方であったらと、考えているのだろうか。
旅人は、決して留まらない。それを知って、自分を与えたのだから、自分の選択だったのだから、でも、後悔はどこにでもある。
《きみに会えてよかった。できるなら、ずっとここにいたい。》
そして、瀬母亜がここに留まったとしたら、物語は別の方向に向かってしまうだろう。二人が教会に向い、何人かの友だちに祝福され、新生活をはじめるとしよう。そして、やはり、数日後に瀬母亜は、消えてしまう。どちらが、より誠実なのか、葉津にはわからないだろう。
出会ったことが、すべての始まりだったわけだが、なにも、二人が選ばれることはなかったのだ。もっとあたりまえの二人が主人公で、時間はゆっくりと海に注ぐ川のように、流れていたのかもしれない。
たった一晩で、まるごとの人生を賭けるようなやり方は、やはり葉津にはふさわしくなかったのかもしれない。
葉津は、まだほんのこどもで、自分のことすらよくわかっていないのだ。
瀬母亜はなにも考えない。なにも苦しまない。ここは、ほんの息抜きのために訪れたところなのだから、責任はないのだ。瀬母亜は、葉津を解放してやれたのかもしれなかった。ひとりの人間として、ひとりで生きて行けるように。
思い出は色褪せ、
あたらしい花束で飾りたてられる
どこまでが真実で、どこからが希望なのか、 わたしにはもう解らない
胸を突き刺すような痛みも、哀しみも
同じように色褪せ、
心の海に沈んで行く
わたしはやがて、ひとりでいることに慣れ、恐れや怒りを上手にてなずけて、世間を渡って行くことができるようになるだろう。
あなたの瞳、あなたの口元、そして背中、覚えていることはほんの僅かしかない
わたしは、激しい心の動きを、しっかりと憶えている。その中心にはあなたがいて、あなたの差し出した手をしっかりと握り返し、その胸に抱かれた
言葉はいつも正確でないから、わたしの気持ちを正直に伝えることはできない。
記憶はいつかわたしを裏切って、まったく違った物語を作り上げるのだろう。
瀬母亜は、葉津のことをいつまで憶えているのだろうか。ふたりがまた生まれ変わって出会う、確率を五十万分の一だと、計算によって求め、また、この地を目指して、空間旅行をするのだろうか。
瀬母亜にとって、未来も現在もなんの意味ももたない。ひとりの旅人として、何よりも自由を重んじ、仕事と休暇を上手に使い分けて来たのだ。
だからこそ、心を揺さぶられるような出会いがあったのかもしれない。
時が流れて行くのが見える。淡いピンク色の、まるで海のようなさざ波がひろがっている。この岸と、あちら側には、数千年の隔たりがあるというのに、今日もまた、大勢の旅人が川を上って行く。