1974.2.27
■アエロフロート モスクワ経由ロンドン行 

日本からモスクワまでは約11時間、その後、モスクワで一度機内から出て(トランジットして)、また、引き続きその飛行機にのり、約5時間 計16時間の飛行時間。 ただし、このときは、天候不順のため(モスクワは空港が軍事基地を兼ねていたため、政府要人が出発するときは、空港を閉鎖することがしばしばあった)、モスクワで五時間くらい待たされた。この間、食事がでたのにはおどろいた。 当時、学生がヨーロッパに行くには、料金の安いアエロフロートが定番だったと思う。 わたしは京都大学の学生が自主的に行なっていた"キャンセルクラブ"というところで航空券を購入し、出発した。そのチケットは到着した日のホテルが二泊分ついているので安心だった(たぶん往復で19万くらい)。 まだ、格安航空券は世の中に出回っていなかったので、旅行会社からパッケージ・ツアーを購入するのが一般的で、わたしのようなケースはかなりヤバイと、まわりの人は心配していた。 アエロは食事は不味いといわれたがそれほどでなく、リンゴ酒(シードル)は飲み放題だったし、パンも胚芽パンで美味しい。なによりもよかったのは、座席が大きかったこと。ロシアの人は体格がいいからネ。


1974.2.28
■大学の先輩が、はるばるExeter(Londonの西の地方)から迎えに来てくれました。

ロンドンのホテルで、先輩と連れてきた女性2人、計4人で、一晩中おしゃべりして過ごした。みんなでこの子はだいじょうぶかと心配していたようです。なにしろ、ロンドンは1年半前に、観光旅行で3日間滞在しただけ。右も左も分からない上に、冒険心はあるときている。とりあえず、みんな観光案内所に出かけて、住むところを決めました。先輩はすぐに帰ってしまい、心細かった。ロンドンの住所は、番地の最後にS.W.1とか、N.W.1とか付いていますが、これは東西南北の位置関係を示していて、はじめての人にもわかりやすい。とりあえず、まず、最初に決めた下宿が Shepherd's Bush という地区。ここの朝食付きフラットにとりあえず落ち着いて、Kings' Road'見物としゃれこみましょう。料金は一週間単位で£23くらいです。広さ八畳くらいにベットと洋服ダンス、机が標準装備。お風呂はコイン式で、テレビは家主さんといっしょに見るのです。朝ごはんは、かりかりに焼いた薄いトーストパンとジャムにバター、そして熱い紅茶。卵は半熟。あさ、八時すぎに家主の奥様がドアをノックして、これらの載った御盆を渡してくれます。


1974.3.1
■ロンドンは朝の六時でも真っ暗なのです。

三月だというのに、朝はまだ薄暗く、陽もささない。ホワイト・イースターという言葉をご存じですか。イースターの頃(春分の後の日曜日)、ロンドンでは、はらはらと雪が降るのです。薔薇が咲き誇る花壇に白い粉雪がちらついて、その中で飲むシェリー酒は最高です。


1974.3.2
■ピカデリーサーカスに行くはずが、バスを間違えて到着できなかった。

ピカデリーサーカスはロンドンの中心にあって、夜になるとネオンサインが輝きます。SONY, Sanyo, Canonなんて日本のメーカが、頑張っていました。バスは一月のり放題のパスが£5(£1=650円くらい)で、土日は友だち一名に限り同乗できます。これを見せるだけで、大ロンドン(Great London)はどこでもフリーパス。わたしは、暇にあかせて、これを使って、ヒースロー空港まで出かけたこともありました。本日の教訓。むやみやたらと歩かず、地図をよく研究すること。バスの路線図を考えること。ピカデリーサーカスの近くに大きなポストオフィスがあって、ここから国際電話ができるのです。日本まで、3分間£2.80。まず係りの人に料金を払い、通話したい国と番号をいって待ちます。しばらくすると、ブース番号を指定されますので、そこにはいって待ちます。すると、話ができて、3分たつと切られてしまいます。ロンドンとの時差は冬時間で九時間、夏時間で八時間です。わたしはいつも日曜日のお昼に掛けていました。すると、ちょうど日本は日曜日の夜八時で家族がみんな揃っています。